発行日:2014年10月17日
・海外都市調査レポート/ミャンマー(2014/06/24-06/29)
・国内調査レポート1/東京調査:谷中・根津・千駄木(2014/06/25)
世界都市調査 in Myanmar
秘密の国ミャンマーの光大調査
2014.06.24-06.29 蕎原愛+ 市田真実
面積は日本の1.8 倍、人口6000 万人を抱える「大国」ミャンマーが、世界にあまり知られていないのは民主化以前の半世紀にもおよぶ鎖国政策の影響に他ならない。
いままさにミャンマー国内には「文明開化の音」が鳴り響いている。そんな過度期の国の光を調査した。
サクラタワーからみたスーレーパヤー
Yangon / ヤンゴン
ミャンマーの首都は今までヤンゴンであったが2003 年夏にネピドーに新行政首都が建設され首都が移った。しかし、ミャンマーで一番賑わっている街はいまだヤンゴンである。
栄えているといっても一番高層のタワーで19階建てだ。近年は多くの海外企業が進出してきており、建設予定の看板がたくさん立ち並んでいて新しい成長を期待させる。
なぜパヤー(仏塔)だけ光輝いているのか
ミャンマーに訪れて一番疑問に思うのが、なぜパヤーだけがこんなにも輝いているのかという事である。
人々が暮らしている街並みはとても暗く慎ましいものだ。夜は最小限の照明しか使われておらず、電球が切れてもそのままで生活している。しかし、パヤーだけはふんだんに光を浴びているのだ。その理由にミャンマーの秘密が隠されている。
切れたままで使っている照明
わずかな照明で生活する人々
ミャンマーは長い間、軍事政権時代を送っており鎖国状態であった。その時は軍の締め付けがきつくすべて検閲されており、E メールですらチェックされていたと言われている。
他国の情報は厳しく制限されており、ミャンマーの人々は自由に情報を入手する事が出来ず、自分達の国の事しかわからなかった。
一見、幸せな仏教国と思われているミャンマーだが、実際は多民族国家であり、その中には有名な首長族と言われるカヤン族や首狩り族と言われるワ族などがおり、すべての民族が仏教を信仰している訳ではない。キリスト教を信仰している部族もおり、国内でも民族紛争が起こっている。
その中で、主要な街にこの様な黄金のパヤーを作り光輝かせているのは、政府が統治したというしるしに仏教の象徴であるパヤーを建ててこれでもかというほどに輝かせ権力を誇示しているのだ。そんな事を知ってか知らずかミャンマーの人々は慎ましく熱心にパヤーにお祈りをし、自分達は所々切れてしまっている蛍光灯の中で生活している。しかし、その表情は穏やかで楽しそうだ。他国の情報が入らない分純粋にも見える。2011 年に政権が変わり、鎖国がとかれ外国人観光客を受け入れる様になった今ヤンゴンの光が人々によってどの様に変化していくかが楽しみである。
(蕎原 愛)
対照的に光輝くシェダゴンパヤー
Nay Pyi Taw / ネピドー
2003 年夏から軍用地だった場所にミャンマーの新行政首都が建設された。そこに訪れると塀で囲われた東京ドーム70 個分もある国会議事堂や10 車線の巨大な道路、各官庁や公務員宿舎、ゲストを迎えるホテルや巨大なショッピングセンターが建ち並んでいる。国会議事堂の一番奥の建物は霞んで見えないほどだ。また、行政首都には一般人は立ち入り禁止で、商人は商業地区に隔離されている。
ネピドーのやりすぎ照明
ネピドーはまさに人工都市である。大げさに作られた国会議事堂は祭りがあると過剰な照明で演出される。そしてヤンゴンにあるミャンマーの代表的なパヤー(仏塔)であるシェダゴン・パヤーそっくりのウッパタサンティー・パヤーがこれでもかというほど光輝いている。ミャンマーは税金制度がほとんど機能していないため、政府はまったくお金を持っていない。予算がないのにどうやって造られたのかというと、軍と深く結びついた財閥グループの手によって建設されてきた。この様に、この国の国づくりのシステムの根幹は資本主義に基づく市場経済ではなく、上層階級の人達の間の蜜月関係のもと作られてきた。
なるほど、一般の人々の生活のあかりなど考えられていないはずだ。しかし、この様な人工的に操作された光ではなく、人々が市場で灯し、身を寄せあっている1 灯の電球の光の方がよっぽど魅力的に感じた。
ウッパタサンティ・パヤー 内部
市内4箇所のラウンドアバウトの中心にはRGBで照らされた花のモニュメントと噴水がある
死のハイウェイ
ヤンゴンからネピドーまでの高速道路とネピドー内の道路と、その差には驚かされた。高速道路は首都移転が決まり政府の命令でわずか5年間の突貫工事で完成された為、多くの設計上の問題を抱えている。ガードレールもなければ、標識もないので沿線の住民が自転車で走っていたり、時には横切る水牛の群れに出くわす事もあるそうだ。もちろん道路照明はほぼなく、帰り道は真っ暗でスコールも降り、道中相当に怖い思いをした。非常電話もないので怪我をしても救急車を呼ぶ事は出来ない。一方、ネピドー内の道路照明は20mおきにきっちりとたてられており、煌々と道路を照らしている。ネピドーには政府関係者と一部の富裕層しか暮らしていないので車通りはほとんどなく、とてつもなく無駄なものに感じた。一般の人々はこの死のハイウェイを通ってネピドーに辿り着いた時、この格差をみてどの様に感じるのであろうか。
(蕎原 愛)
ヤンゴンからネピドーまでの道路 車で約4時間かかる
ネピドー内の道路照明
ウッパタサンティ・パヤー
Bagan / バガン
9世紀から13世紀までパガン王国の都であった古都バガン、特にオールドバガンと呼ばれる区域は考古学保護区に指定されている。
パガン王朝の最盛期には10,000を超えるパゴダ(仏塔)や僧院が建立されたといい、現在でも3000基あまりがこの地に残っているという。
未開の観光都市
午後6時をまわるとシュエサンドー• パヤーには大きな観光バスに乗ったツアー客や地元の人々が次々と集まる。この寺院は1057 年にアノーヤター王がモン族のタトォン国を征服しバガン王朝を建てた時に建立されたものだ。シュエ=黄金の、サンドー=聖髪という意味で、仏陀の聖髪が納められているという。5層のテラスを持つこの仏塔の上層部から、無数の寺院や仏塔のシルエットとともに眺める夕日は、他に類を見ない幻想的な景色である。
ヤンゴンやネピドーの黄金に光り輝くパヤーとは異なり、ここの建築はほとんどが白や赤茶色をしたレンガ造りで、ライトアップも2,3の大きな寺院を除いては施されていない。
遺跡群は日没とともに闇に沈み、街全体が別世界のような静けさに包まれる。
かつてのオールドバガンの住人たちは、この城壁に囲まれた区域が保護区とされた事により強制的に追い出され、現在はここから南に位置するニューバガンに住んでいるという。メインとなる通りには数十メートルおきに一灯の街灯が設置されているが、その殆どが不点灯。日中は馬車やレンタサイクルで寺院巡りを楽しむ観光客で賑わっていた通りも、日没を過ぎると車やバイクが時折通る程度で、歩行者は皆無だ。
バガン一の大きさと美しさを誇るアーナンダ寺院 内部には裸の蛍光灯とおそらく装飾のためのRGB電球が
観光収入はどこへ?
2011年の民政移管後、年々観光客が急増しているミャンマー。2013年にはその数は200万人を超えたという。中でもバガンには仏教建築群を目当てに国内外から多数の観光客が訪れている。
ここで疑問に思うことは、これだけ観光客のシュエサンドー•パヤーから臨む夕日と遺跡群多い街で、なぜこんなにもインフラの整備が遅れているのかということだ。オールドバガンで唯一舗装の施された大通りAnawrahataRd.でさえも、60メートルおきに設置されたナトリウム灯の数灯に一灯は破損したままになっている。住居はもちろん店舗もないこの地域は少し小さな通りに入ると街灯さえもなく、懐中電灯を持っていないと5メートル先すら見えない。
人々の生活や観光地としてのさらなる発展よりも仏教建築物を修復し守ることを最優先とする人々の信仰心の表れなのか。はたまた、この地の観光収入が前述のヤンゴンやネピドーなどの都市開発に優先的に使われしまうのか。
日没とともに闇に沈む観光都市バガン。訪れる人々にとって、その魅力は古代にタイムスリップしたかのような手付かずの荒涼かつ神聖な土地と、自然光と最小限の明かりとともに成り立つ慎ましやかな生活にあるともいえる。
今後のバガンは、ミャンマーの観光産業を担う町としての包括的な取組みが課題となっていることは確かである。太古からの財産を守るという使命と同時に、地域全体の光環境を含む整備がどのように遂げられるか、とても興味深い。
(市田 真実)
Anawrahta Rd. スケッチ
シュエサンドー・パヤーから望む夕日と遺跡群
東京調査:谷中・根津・千駄木
にぎわいのあかりと生活のあかり
2014.06.25 瀬川佐知子+本多由実+山本雅文
過去の調査では東京の下町として、浅草の盛り場や神楽坂の料亭をとり上げたこともある。谷根千は東京の中心にありながら、浅草や神楽坂とは違う、もっと生活に根付いた下町が残る。今回は主に人通りが多い商店街と、路地に入った住居エリアを調査し、谷根千らしいあかりを探してみた。
今回の調査では、にぎわいのある谷中銀座、よみせ通りを抜けて、へびみち( 旧藍染川)を歩いた。谷根千は戦災をあまり受けず、大規模開発を逃れたため、旧来の情緒豊かな街並みが残されている。人間慣れした猫が道を行き来し、夜の住宅街からは祭囃子の練習音が聞こえてくる。本調査で歩いた3 つの通りから、それぞれ異なる下町の個性が伺える。
谷中銀座
断面スケッチ
谷中銀座は生活に根差した商店街である。休日は観光客で賑わい、下町のにぎやかさを演出する。その突き当りには『ゆうやけだんだん』と呼ばれる階段があり、商店街と周辺の街並
みを一望できる。夜7時過ぎ、雲の隙間から夕焼けがみえた。店先の灯りも次第につきはじめ、道筋はオレンジ色に染まる。商店街入り口の全体が白く光るアーチさえなければ、もっと実直なにぎわいのあかりが際立ったに違いない。通りに並ぶ水銀灯とブラケットは統一感があり、場に馴染んでいる。店先の看板を照らすスポットライトは白熱からLED 電球に変えられていたが、対象物の方向をしっかり向いていたため、まぶしさがなく違和感を感じなかった。歩道中心部では10lx程度だったが、店近くでは300lx程度であり、少し明るく感じた。看板用のスポットライトとブラケットの色温度が電球色に統一されているので、途中にあるスーパーマーケットの白い明かりが、ひときわまぶしく感じたのが残念だった。にぎわいの灯りがみられたのも束の間、8時頃になると、ほとんどのお店は閉まり、ポール灯とブラケットと看板灯の灯りが、ところどころに、ぽつぽつと、小さく残るだけだった。
(山本雅文)
昼の様子
夜の様子
ゆうやけだんだんから商店街を見下ろす
にぎわいの灯りがみられるのも一時間足らず
閉店後も看板やブラケットの灯りは残されていた
よみせ通り
谷中銀座を抜けて千駄木方向へ続く商店街が「よみせ通り」である。昔は露店が並びにぎわっていたが、車の通行が増え廃止されたそうだ。幅8mの広々とした道沿いに生活用品店や居酒屋、豆腐屋、雑貨屋などが連なり、昼間は地元の人と観光客で人も車も多い。長年営業しているお店では、軒下のむき出しのランプで店先の商品を照らしたり、白い蛍光灯だったりしている。「懐かしい商店街」の雰囲気や、店の活気を生み出す灯りである。一方で、新しい雑貨屋などは「下町」を意識しているのか低い色温度の照明器具を使っている。
これらの小さな灯りが灯るにぎやかな「下町」を想像していたが、夜になると多くの店が閉まり、静かな通りに街灯の白い光が目立っていた。もともとある車道用の水銀灯と、和風のデザインのLED街路灯(5000K)が10mおきの千鳥配置で並び、路面照度は30lx 程度。突き出しの内照看板は少しあるがファサードを照らすものがほぼ存在しない。閉店後も看板灯やブラケットを点灯している谷中銀座と比較して、空間の広さに対して灯りの要素が少なく、同じ照度でも寂しい印象だった。
提灯がある居酒屋の佇まいに余計ほっとした。繁華街になれてしまった目には物足りない夜の景色だが、実際の生活を思えば灯りの量としては十分だろう。ただ、せっかくレトロなデザインの街路灯にしたのだから、色温度を低くするほうがより夜の風景にも愛着がわくのではないか。
(本多由実)
夜は照明アイテムが少なく寂しい雰囲気
軒先のむき出しの蛍光ランプ
レトロな光にほっとする
街路灯が2 種類競合している
へびみち旧藍染川
へびみちは不忍通りを日暮里駅側へ数ブロック入った住宅街の道である。もともとは藍染川という川が流れていたが、大正時代に川を地下に通し、道となった。そのためか蛇行した幅3m 程度の細い道となっており、ところどころに新しくできた小さなお店がある他は2、3 階建ての住宅街となっている。
日中にこの道を通ると下町の風情が残るこじんまりとした住宅街の印象を受けたため、夜の情景も下町らしさを期待した。
しかし、夜に戻ってみると色温度の高い水銀灯と思われる街路灯でほぼ均一に道を照らされており、下町らしさはあまりみられなかった。照度は30lx で住宅街の細い道としては明るく感じた。死角ができやすい形状の道だが、ほぼ均一に照らされているため不安に感じることはなかった。
各住宅には玄関灯が取り付けられていたが、それらが日没後点灯しているところはあまりなかった。商店街のように統一させるのは難しいのかもしれないが、下町の特徴ある通りとして各住宅の玄関灯、門灯などを利用した
もう少し温かみのある光景をつくることができるのではないかと感じた。
(瀬川佐知子)
昼間の様子
夜の様子
玄関の灯り
断面スケッチ
まとめ
谷中銀座は計画的で商店街のにぎやかさを光で演出し、統一感のある夜の下町の景色をつくりあげていた。それに対し、住宅街とよみせ通り商店街は光源も形状もばらばらの街路灯が、全体での秩序を考えずに設置され、古い店のたたずまいや家の玄関先といった「下町の雰囲気」を活かしきれていなかったのが意外な発見だった。遅くに外に出る住人が少ないのかもしれないが、町がもともと持つ魅力を昼にも夜にも引き出そうという取り組みが、町の風景をもっと豊かにするのではないだろうか。
谷中銀座 残照の頃、根津駅周辺から俯瞰する。住宅の灯りがつきはじめた。寺院の緑が沈んでみえる