2024.02.06-02.12 山本雅文 + 伊藤佑樹
2月の初めにアラスカを訪ねた。市街地、住環境、エスキモーの暮らし、大自然をテーマに極北の光環境調査することが目的だ。本調査ではアラスカ州の最大都市であるアンカレッジと、自然に囲まれた街フェアバンクスに滞在した。またフェアバンクスでは山中のロッジに滞在、オーロラ観測を実施した。
■極北の街
その北極圏に限りなく近い街、フェアバンクスの正午過ぎ。天候は晴れ。太陽は地平線に近い位置まで昇り、これから沈んでいくようだ。家々や木々が、長い影を地表に落としている。それはまるで、濃紺な水彩絵具を絵筆の先につけて、雪につつまれた白いカンバスを、丁寧に一筆ずつなぞったような美しい風景だ。ここはマイナス20℃の世界。それでも太陽のぬくもりは、地肌に確かに感じられる。豊かな四季がありながら、最も厳しい時期にはマイナス40℃になる。風が吹けば体感気温は更に下がる。そんなアラスカを訪ねたいと思った。厳しい自然の中で動植物が生きている。そして隣り合わせるように人々の暮らしがある。その理由を紐解きながら照明文化を調査したい。
■自然へと迫る
街は自然と対峙するかのように佇んでいた。例えばアンカレッジのダウンタウンの大通りを歩いていると、あたかも影に支配されたかのような錯覚を覚える。陽の光が届かないのだ。そして街道沿いの建物に切り取られたはるか先に、山脈が顔をのぞかせている。山脈はかすかに陽光を受けて白く輝いている。
夕暮れ時に街の郊外が一望出来る立体駐車場の屋上に立つ。そして南東の方角を眺める。日が落ちるにつれて、街のあかりが少しずつ灯りはじめる。ダウンタウンの喧騒はいつしか住居の窓あかりに変わり、山の裾野まで続いて行く。それは寒気にけぶる山肌の上でも確かに輝いている。この頃外気はマイナス10℃を下回っていた。けれどぬくもりを感じた。ひとつひとつのあかりから人の営みが浮かぶようで、自然へと迫り、寄り添う風景がそう感じさせたのだ。
■調査の支度
この地を歩くためには準備が必要だった。服は空気の層をつくるように重ね着をし、室内との寒暖差を考え脱着が容易なものとした。手袋と靴下は2 重、スノーシューズ、厚手のニット帽。
ネックウォーマーで口元まで覆った。調査の必需品はカメラと照度計。バッテリーの予備はポケットで温めて寒さによる消耗から守った。機材を屋外から屋内に持ち込む時に、結露しないようにカバンにしまい、徐々に室温にならした。
■春
フェアバンクスの夕暮れは、凍り付いた川の上で迎えることになった。そこでも服は寒さから身を守ってくれた。西の川面に夕日が沈むにつれ、厚い氷に覆われた夕暮れの雪原は、空の青さを写し取ったかのように、ゆっくりと染まっていく。街の雑踏が遠くから聞こえる。雪原を吹く冷たい風が、肌をやさしくなでる。時計の針は午後4時を回り、夕刻を告げる鐘の音が鳴る。冬至を過ぎた2 月のアラスカは日照時間が毎日7、8分ずつ伸びている。そう、季節は春へ向かって進んでいる。
そんな地でNenana Ice Classic というイベントがある。3 $で買ったチケットに、川の雪どけ時刻を予測して記入し赤い缶に入れる。そして先端に旗の付いた白黒のポールを川の上にたてる。ポールと時計をロープで結ぶ。川の氷が解けて旗が倒れると時計の針が止まる。その時刻を当てた人同士で掛金を分け合う。この地で古くから行われているギャンブルだ。
春を待つ人々の思いにあたたかな人間味を覚える。そして、凍った川面に春を仕掛ける人々の心の豊かさに共振する。― 2024 年4月27日、午前5時18分、ネナナ川が解氷、アラスカに春が訪れる ―
■エスキモーの暮らし
凍った川の上で過ごしたあと、春先に北極海で行われるクジラ漁のことを考えた。漁では氷河の上にテントを張って、夜通し見張りにあたるそうだ。その時、かつてはアザラシの油に火を灯して過ごしたとか。
アラスカは狩猟生活と人の暮らしが密接に関わって来た歴史がある。そして狩猟とは、人間が自然の中から恩恵を受ける行為だと思う。例えばアンカレッジ博物館で目にした石材のランプにその深遠をみる想いがしてならない。
それは500-1200 年頃に使われていた。窪みに油を満たして火を灯し、伝統的な住居の間を照らすために使われた。油はクジラやアザラシなどの動物のものが使われた。芯は苔でつくられ、時には杉の皮が混ぜられた。中央の人型からは自然崇拝を感じる。自然の恵みに火を灯し、それを生活に使ったのだ。やはり、この地で生きるということは、自然と深く関わりを持ちながら生きるということなのだ。長い時の流れのなかで夜間景観も変化して来たことだろう。しかし自然と共生する姿は、今も昔も変わらない
のではないか。そうだ、極北の地に生きる人々ががこれまで、恐れ、慰められ、慈しんできた自然光がある。オーロラだ。
■夜空
漆黒の闇に灯るひとつの窓あかり、その上空にオーロラがあって、光は今にも地に届きそうなくらいに鮮明だ。それはシドニー・ローレンスが描いた絵画の話し。アンカレッジ美術館でその小さな油絵と出会った日に、ダウンタウンの夜空を見上げた。もちろんそこには絵のような風景はない。街路灯が雪に覆われ凍結した地面を照らし、街は思いのほか明るい。車が行き交い、温かな飲食店の中で談笑する人の表情が、街道沿いに浮かび上がる。路上を数少ない人が行き交う。広場のポール灯のあかりに照らされ、息を切らしながらホッケーを楽しむ若者がいる。
絵画の世界とは程遠い極北の都会の夜は、束の間のにぎわいをみせ、そして更けていった。だから静かな夜空を求めて、フェアバンクスにある観測のための宿泊施設に向かった。ここは針葉樹の山に囲まれている。夜9 時過ぎから翌朝3 時頃まで待機小屋で待つ。外はマイナス25℃、ほんの少し外気にあたるだけで体力を消耗する。アラスカ大学のオーロラ予報を片手に、数分おきに外に出て空を見上げた。
深夜12 時をまわった頃、北の夜空がぼんやりと明るくなった。山の稜線にならぶ木々の枝がシルエットになって浮かびあがる。そのことでオーロラが微量の光であることを知る。雪の上に座り、ただ空を見上げ、移り行く微かな光に目を凝らす。それはまるで極北の夜空をやさしくなでる風のようだ。それは0.1 ルクスにも満たない。月あかりや星の瞬きよりも儚い光だ。雲と見間違う程の淡い気配が空を駆け巡る。やがて気が付くと、空には星の輝きだけが残った。
■命の縮図
この調査で幾度かオーロラに出会うことが出来た。その中で、なんとも印象深い出来事があった。それはフェアバンクス空港へ向かうタクシーの中で起きた。運転手が「いまオーロラが出ているよ。」と言う。車窓から見上げると、路肩の街灯越しの漆黒の夜空に、淡い緑色の帯がうっすらと見えた。それは、この旅で目にした中でいちばん鮮やかだ。
この時の体験が一番感動した。なぜかというと生活圏の夜空でオーロラを見たからだ。私はこの空を切り取って、初日に立体駐車場から眺めたアラスカの風景に重ねた。その自然光がこの地を特別にしている。そしてなにより、厳しい寒さの中で、暮らしの灯りが放つぬくもりに感動するのだ。もちろん照明に限った話しではない。いま私の体は強烈な寒気にさらされている。それは体力を奪っていくような寒さでもある。その中で力強く生きる命に感動するのだ。
例えば小鳥が大空を舞って木にとまり鳴いたとき。例えば、雪で覆われた常緑樹の葉が深い緑色だと知ったとき。例えば広大な原野の中を走る1 本の道から。もちろん山の裾野に広がる住居の窓あかりから。肌に感じる太陽のぬくもりに。街の雑踏もだ。普段何気ない些細なことでも、この地では新鮮に感じられる。人が自然を切り開いたのだ。そして雄大な自然の中に人々の営みが確かにある。この極北の地に。そして、その情景は厳しい寒気の中で繰り広げられているのだ。
■夜間飛行
機長が機内アナウンスで、フェアバンクス空港を離陸した飛行機は高度1 万メートル上空を、シアトルに向けて順調に飛行していることを告げる。窓の外を見ると浅緑の雲が浮かんでいる。
カナダ上空の高度約10 万メートルの位置にあるオーロラを眺めているのだ。まだ体には底冷えするような街の寒さが残っている。やがて目を閉じると、旅の記憶が眠気の中で次第に遠のいていく。
アラスカのとてつもなく雄大な自然が、光環境に彩を添えていることは紛れもない事実だ。これからも自然環境が保たれ、この土地ならではの人々の暮らしのあかりが、人間味ある豊かさを帯びながら栄えることを願う。
季節はめぐり6 月も終わろうとしている。今のアラスカは白夜で、1 日の日照時間が19 時間程のようだ。もうオーロラは見えない。これからワスレナグサの花が咲き、短い夏が訪れるのだろう。( 山本雅文)
■街の明かり
自然との共存の話から、ここで街の明かりについて話を移そう。アンカレッジの街並みを俯瞰すると通り全体が煌々と照っているように見える。照度を計ると約15 ルクスと他の町と変わらず一般的な明るさだ。数値以上に明るさを感じた要因としては、おそらく路面全体が雪で覆われていることが関係している。ダウンタウンを離れ暗い夜道を歩いている時も、微かな環境光(住宅の窓明かり、星月の明かりなど)があるだけで十分に明るさを感じた。雪景色の素晴らしさを感じつつ、一方で街の明かりの煩雑さ
が気になってしまう。エリアによって街灯の色温度が違い、街の至る所で装飾的な電飾が施されていたりと、いくつもの要素が入り乱れている。広大な山々と隣り合う極北の街景観としては、暖色の明かりがより馴染んでいるように感じた。
■街灯デザイン
アラスカの街中には多種多様な街灯が立てられていた。確認できたものだけでも20 種類近くの街灯が存在した。デザイン性の強いものや機能的なものなど幅広く、それぞれ立てられた年代が違うことが伺える。街の景観とも共通して言えることだが、アラスカの歴史背景として他国からの介入・急速な都市開拓がなされた経緯を持つため、あらゆる時代・文化要素が混在しているように感じた。当初アラスカ独自の景観というものが掴みきれていなかったが、アメリカ文化が色濃くでている街並みとして捉えると
しっくりとくる。
■住宅の明かり
街中でも人けは少なかったが、ダウンタウンから少し離れた住宅街ではより一層深い静けさがあった。住宅街で目立った照明といえば交差路に建つ街灯のみで、他は住宅からの明かりが漏れ出ている程度だ。個人的には心地のいい暗さであったが、この暗さ故により深い静けさを作り出しているのかもしれない。周囲が雪で囲われているため、住宅から漏れ出る光が雪を反射することで十分な明るさを生み出している。雪面をほんのりと照らす室内からの漏れ光はとても優しい光だ。一方で電飾に包まれたような住宅や、白色光で過剰にエントランスをハイライトしている住宅なども存在した。全体を通してみると統一性のない印象も受ける。前述したように雪をうまく活用し空間の明るさを作り出せるのが理想的ではあるが、夏には雪が解けてしまうことを考えると一概に冬の景色だけでは語り切れないところもある。
■自然の光素材
アプローチに立てられたボラードライトがとても印象的だ。膝下より低いボラードライドが雪の下に隠れているものがいくつかあり、時間の経過と共に覆われただけかもしれないが、雪を介してふんわりと灯る姿はとても美しかった。
その他にも雪で囲いを作り反射板のような役割を果たしてしているものもあった。自然の素材”雪”を拡散・反射材としての使う、雪国ならではの光の活用方法を垣間見ることができた。
■チナ温泉
我々はオーロラを観測するため、フェアバンクス東の山奥に位置するチナ温泉を訪れた。チナ温泉はアラスカ開拓史初期に建てられた施設で、リューマチの痛みに悩む鉱員たちの湯治場として1905 年頃からその名を広く知られるようになった。現在では毎年多くの観光客がオーロラを鑑賞するため訪れ、フェアバンクスで最も有名なオーロラを鑑賞するための施設となっている。人里離れたチナ温泉では過酷な冬を乗り越えるため、再生可能エネルギーに注力している。地熱を利用した地熱発電、地熱によって温められた水を利用した温室菜園など、極寒の冬を迎えるアラスカではより少ないエネルギーで過ごすことが求められる。ビニールハウスの中は13000 ルクスと高照度に保たれており、極北の山奥で見ているとは思えない異様な光景であった。施設から数分歩くと一面雪に覆われた静寂な森景色が広がる。夜中にこの広大な自然景色をのみ込むほどのオーロラが望めるかもと、昼間から待ちきれない思いにさせられた。
■赤色の光
チナ温泉では各所で赤色の光が使われていた。露天風呂に向かうまで通路でも赤色の照明が使われており、アンカレッジ・フェアバンクスの街中でも幾つか赤色の照明が施されていた。アラスカ各所で使われているのみると、厳しい寒さを過ごすアラスカにおいて少しでも温かさを感じれるよう、色を使った工夫をされているのかもしれない。チナ温泉で多用されていた要因としては、夜行性動物への配慮、もしくはオーロラ観測への影響などが考えられる。夜行性動物は視機能上、夜間赤色の光がほとんど視認できないらしく、夜行性動物にとって赤色の光が及ぼす影響は限りなく少ない。アラスカでは数多くの野生動物が生息するため、それら野生動物への配慮なのかもしれない。ちなみに、ヤギは夜行性ではないがチナ温泉にあるヤギ小屋の室内は真っ赤に染められていた。また赤色の光は星空を観測する際にも使用されているらしい。夜間赤色光を視認した場合、通常の光を見た時より目が光に幻惑されにくいらしく、微量な光量で見え方が左右されるオーロラ観測にとっては凄くシビアな内容なのかもしれない。
■露天風呂の演出照明
温泉施設としては屋内に簡易的なバスタブのようなものはあるが、大きな岩々に囲まれて形成された露天風呂がメインとなっている。男女混浴のため水着を着用し、いざ入浴。水着一枚でマイナス20℃の世界に放たれるイメージがあまりにもつかない。外へ飛び出た瞬間すぐにでも引き返そうかと思ったが、心を無にし露天風呂まで向かう。露天風呂へ到着すると、人の顔がギリギリ認識できる程度のかなり暗い空間だった。ただその明るさは一般的な照明で照らされてできたものではなく、周囲の岩々に設置
されたカラーライティングによって照らされたものであった。湯気が漂う先にぼんやりとむき出しの光源が灯っているのが確認できる。湯気が光を拡散させ、とても幻想できな雰囲気を作り出していた。カラーライティングでの演出は、微量ながらにオーロラを彷彿とさせるための工夫であるように思う。
■オーロラについて
前述されている内容だが、実際のオーロラは写真とはかけ離れた見え方である。写真とのギャップに落ち込む一方で、一つの仮設的な考えが生まれた。アンカレッジ・フェアバンクスを通し感じたこととして、街全体の景色が淡く感じた。
太陽高度の低い日差しのせいか、もしくは街の建物のためか、はたまた景色一面が雪が覆いつくされているためか。しかしそんな淡い色合いが広がるアラスカにとって、オーロラというの存在は多少なりとも人々の生活に鮮やかな景色を添えてくれる貴重な要素であるように感じた。今回の調査で見たオーロラはベストコンディションであったとは言い難い。過度な期待は禁物だが、オーロラが最大限輝き夜空を漂う姿を一度見たうえで、改めてアラスカの人々にとってオーロラとはどういった存在なのか言及したいと思った。(伊藤佑樹)
■まとめ
この調査を振り返れば、確かにアラスカの市街地では、他国の都市部や雪国と似通った機能的な風景も見られる。しかし、アラスカの人々の暮らしが生み出す光環境は、抗えない自然と寄り添う中で、自然と人との均衡が適度に保たれ、どこか人間的なぬくもりを感じる夜間景観となり、この土地の魅力を惹きたてていると感じた。
これから先、例え都市照明が変わりゆく中にあったとしても、このようなぬくもりある光環境を大切にして欲しい。( 山本雅文)